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1937年:クリーブランド・ラムズがホーマー・マーシュマンによって設立される。

1941年:ダン・リーブスがクリーブランド・ラムズを買収。

1942年:チリ・ウォルシュがアシスタント・コーチとして雇われる。(ウォルシュは1944年にジェネラル・マネージャーに昇進)

1945年:ウォルシュが弟のアダムをヘッド・コーチとして雇い直ぐにNFLチャンピオンシップまで勝ち上がる。
タイトルゲームは1945年の12月15日にクリーブランドで開催。この試合はラムズのルーキーQBボブ・ワターフィールドとワシントン・レッドスキンズのベテランQBサミー・バウとの対決に注目が集まり、結果ラムズが15−14でレッドスキンズに勝った。

1946年:1月にオーナーのリーブスがラムズをカリフォルニア州のロサンゼルスに移したいという要求をNFL側に出すが、他のチームとの距離があまりにも離れすぎていて試合をする時に移動のための費用が掛かり過ぎるいうことで、他のチームのオーナーはこの要求に不満を漏らす。しかしリーブスは辛抱強くこの要求を折らず、他のチームがロサンゼルスに来て試合をする際に5,000ドル以上の保証金をラムズ側が出すことでこの要求は受け入れられた。そして1946年、西海岸初のNFLチームとしてロサンゼルスにフランチャイズを移した。
また同年3月21日にNFL初の黒人選手となるHBケニー・ワシントンと契約。5月7日には同じく黒人選手のウッディ・ストロードとも契約している。
ロサンゼルス・ラムズとしての最初のシーズンは6勝4敗1分。

1948年:NFLで初めてヘルメットにロゴを入れた。現在と同じ羊の角のロゴで大学時代アートを専攻していたHBフレッド・ゲークによってデザインされた。

1949年:QBボブ・ワターフィールドとルーキーQBノーム・ヴァン・ブロックリンが伴にチームを勝利に導き、LA移転後初の地区優勝を果たす。しかしフィラデルフィア・イーグルスとのチャンピオンシップではパス成功わずか10回で98yds、ラッシュも21ydsと完全にイーグルスに押さえ込まれ14−0で負けてしまう。

1950年:人気が上昇しNFLチームとして初めてホームゲームとアウェイゲームを両方TV放送されるようになる。

1951年:アウウェイゲームのTV放送の契約を解約。チームは3年連続となる地区優勝を飾り、チャンピオンシップでは24−17でクリーブランド・ブラウンズに勝つ。

1955年:新コーチのシド・ギルマンの下、再度地区優勝を遂げるがブラウンズとのチャンピオンシップで38−14で敗れる

1960年:元ラムズのジェネラルマネージャーのピート・ロゼルがNFLのコミッショナーとなる。

1967年:NFLが4つのディヴィジョンに分かれる。
ラムズはコースタル・ディヴィジョンで11勝1敗2分の成績をあげ地区優勝。しかしプレイオフでグリーンベイ・パッカ―ズに28‐7で敗れてしまう。

1969年:QBローマン・ガブリエルの24本のTD、DLのフィアーサム・フォーサムなどの活躍で再度地区優勝を遂げるが、カンファレンス・プレイオフでミネソタ・ヴァイキングスに23‐20で敗れる。

1970年:NFLとAFLが合併。NFLのチームがNational Football Conference(NFC)となりAFLのチームがAmerican Football Conference(AFC)となりそれぞれのカンファレンスに3地区を設け、それぞれの地区の優勝チームとそれぞれのカンファレンスのワイルドカード・チームがプレイオフへ進出出来るという、現在のような形となる。

1971年:1941年からオーナーを勤めていたリーブスが癌をわずらい4月にニューヨークにて他界。

1972年:シカゴの企業経営者ロバート・アーセイが1900万ドルでラムズを買収し当時バルティモア・コルツのオーナーだったキャロル・ローゼンブルームとフランチャイズをトレード。ローゼンブルームがラムズの新オーナーになる。

1973年:12勝2敗で西地区の地区優勝を飾るがプレイオフでダラス・カウボーイズに27‐16で敗れる。

1974年:NFLで戦後初となる黒人QBのジェームス・ハリスなどの活躍で10勝4敗で地区優勝を再度飾る。
プレイオフではワシントン・レッドスキンズを19‐10で破り、NFCチャンピオンシップに駒を進めるがミネソタ・ヴァイキングスに14‐10で敗れる。

1975年:NFCで最強の守備をほこり12勝2敗で西地区の優勝を飾る。14試合で許した点数は僅か135点。
プレイオフではセントルイス・カーディナルスを35‐23で破るが、NFCチャンピオンシップでダラス・カウボーイズに敗れる。カウボーイズはこの試合ラムズのラッシュを22ydsに押さえ込み3度のインターセプトを奪うなどして力の差を見せつけた。

1976年:10勝3敗1分けで地区優勝を飾り、プレイオフでは14‐12でダラス・カウボーイズに勝つが、NFCチャンピオンシップでは24‐13でミネソタ・ヴァイキングスに負けてしまう。

1977年:10勝4敗で地区優勝するもプレイオフでまたもミネソタ・ヴァイキングスに14‐8で負けてしまう。

1978年:NFLはレギュラーシーズンを16試合に拡張。それに伴いにワイルドカード・チームを1つ増やした。
ラムズは12勝4敗で再度地区優勝を飾り、プレイオフでも34‐10でミネソタ・ヴァイキングスに勝利。しかしチャンピオンシップでダラス・カウボーイズに負けてしまう。

1979年:4月にオーナーのローゼンブルームが死去。奥様のジョージア・フロンティアが後を継ぐことになる。
チームは9勝7敗で7年連続の地区優勝を飾り、プレイオフ初戦で21‐19でダラス・カウボーイズに勝ち、チャンピオンシップでは9‐0でタンパベイ・バッカニアーズに勝利。
念願だったカンファレンスタイトルを獲得し、初のスーパーボウル出場。対戦相手はピッツバーグ・スティラーズ。ラムズは第4クォータまで19‐17とリード。しかしその後2つのTDを許し31‐19で目の前に迫っていたNFL制覇を逃す。

1980年:ワイルドカード・チームとしてプレイオフ進出するが、34‐13でダラス・カウボーイズに負ける。

1983年:ワイルドカード・チームとしてプレイオフへ進出。24‐17でダラス・カウボーイズに勝つが続いてのワシントン・レッドスキンズに51‐7で大敗してしまう。

1984年:ワイルドカード・チームとしてプレイオフへ進出するが、16‐13でニューヨーク・ジャイアンツに負ける。

1985年:11勝5敗の成績で西地区優勝し、初戦のダラス・カウボーイズ戦は20‐0で圧勝。しかし2戦目シカゴ・ベア―ズに24‐0で負ける。

1986年:ワイルドカード・チームとしてプレイオフへ進出するが、初戦のワシントン・レッドスキンズに19‐7で敗れる。

1988年:ワイルドカード・チームとしてプレイオフへ進出するが、初戦のミネソタ・ヴァイキングスに20‐17で負ける。

1989年:ワイルドカード・チームとしてプレイオフへ進出しフィラデルフィア・イーグルス、ニューヨーク・ジャイアンツに勝つがNFCカンファレンスゲームでサンフランシスコ・49ersに負けてしまう。
この17年間7人ものQBの入れ替えがありながら14回ものプレオフ出場を果たしたラムズだったが、この後10年間プレイオフ出場が果たせないラムズの暗黒時代が始まる。。。

1991年:昨年までの強いチームはどこへ行ってしまったのか、フランチャイズ記録となる3勝13敗という不名誉なシーズンで終わってしまう。
更にこの年のプロボウルにはラムズ史上初めて一人の選手も選ばれることが無かった。

1995年:チーム力の低下、ファン離れなどからフランチャイズをロサンゼルスからセントルイスへ移す。
ここ5年間で23勝57敗という成績を残していたラムズはリッチ・ブルックスをヘッド・コーチ、 スティーブ・オートメイヤーをジェネラル・マネージャーとして迎える。更にプレーヤーも一掃させ22人もの新しいロースター入りがあり、セントルイスのダウンタウンに位置するTWAを本拠地とし新たなるチームをスタート。初年度の成績は7勝9敗だった。

1997年:1980年にフィラデルフィア・イーグルスをスーパーボウルへ導いたディック・バーミールが新ヘッドコーチとして迎えられる。ヴァーミールの最初の2シーズンは成績は9勝23敗だった。

1999年:10年間の暗黒時代をおくっていたラムズが90年代最後の年に奇跡を起こす。この年期待のエースQBとして迎えられたトレント・グリーンがレギュラーシーズンを前に怪我のためシーズンエンド。そこに登場したのが当時NFLでの経験が全く無いに等しいカート・ワーナーだった。無名のQBに誰もが今季のラムズも駄目だろうという思いが高まったが、レギュラーシーズンを終えてみれば13勝3敗で地区優勝。
シンデレラ・ストーリーはまだまだ続き久々のプレイオフ出場からスーパーボウル進出を果たす。そしてテネシー・タイタンズとの激戦の末、過去最高とも言われたスーパーボウルはラムズが勝利。スーパーボウル初勝利を果たす。
ヴァーミールはこの後、辞任。

2000年:前任ヴァーミールの指名を受け、前年からオフェンスコーチだった、マイク・マーツを新ヘッドコーチに。
昨シーズンのメンバーがほとんど残りシーズン序盤は凄まじいオフェンス力で連勝を築く、しか しQBカート・ワーナー負傷の後、トレント・グリーンが先発をするがディフェンスが足を引っ張り勝ちに結びつけず、最後はぎりぎりワイルドカード・チームとしてプレイオフに出場。過去最強のワイルドカード・チームと言われるが、初戦同地区のニューオリンズ・セインツに負けてしまう。

2001年:昨年ディフェンス崩壊を受けディフェンスコーチにタンパベイ・バッカニアースでコーチをやっていた、ラヴィー・スミスを就任。最強のオフェンスのメンバーはそのままにディフェンスのメンバーを殆ど入れ替え、バランスの良いチームに。ドラフト権も旨く使い、シーズン中はそのドラフトで得たルーキーが活躍。
14勝2敗で地区優勝を飾り、順調に3度目のスーパーボウルに進出。しかし自慢のオフェンスが機能せずニューイングランド・ペイトリオッツに負けてしまう。

2002年:NFL32番目のチームとしてヒューストン・テキサンズが誕生。それに伴ない8地区による地区編成が成される。
しかしラムズは前年のスーパーボウル敗戦を引きずってか、プレシーズンからまさかの9連敗。ついにはQBカート・ワーナー、RBマーシャル・フォークまでもが怪我に倒れチームはどん底状態。そこに現れたのが3番手QBのマーク・バルジャー。チームの連敗を止め、連勝を築き上げていった。しかしオフェンスラインの崩壊もあり結局プレーオフには滑りこめず7勝9敗で負け越してシーズンを終えた。

2003年:第1週のジャイアンツ戦でQBカート・ワーナーが負傷。翌週から出場のQBマーク・バルジャーがチームを引っ張り、先発QBのポジションも勝ち取る。しかしプレーオフでキャロライナ・パンサーズに破れシーズンを終える。

2004年:シーズンを前にQBカート・ワーナーがニューヨーク・ジャイアンツへ移籍。チームとしてのバランスは既にオフェンスのみで補えられる状態ではなく、8勝8敗でプレイオフ進出もアトランタ・ファルコンズに惨敗を記す。

2005年:RBマーシャル・フォークが控えに回り、04年ドラフト1位のRBスティーヴン・ジャクソンが先発RBとしてプレー。QBマーク・バルジャーの負傷もありチームは崩壊。6勝10敗でシーズンを終え、同地区首位シアトルの後を追うことは出来なかった。

2006年:前マイアミの攻撃コーディネーターを務めていたスコット・リネハンを新HCに迎え、8勝8敗でシーズンを終了。プレイオフ進出はならなかったが、新しいスタッフを揃えて前年以上の内容の良いシーズンとなった。

2007年:膝の傷を抱えていたRBマーシャル・フォークがシーズンを前に引退を決断。
シーズンが始まっても攻守の歯車が合わずに1991年のLAラムズ時代以来のワーストとなる3勝13敗で地区最下位という結果に終わる。

2008年: 1月18日、79年から夫の後を継いでオーナーを務めていたジョージ・フロンティアが癌の影響で亡くなり、息子のチップ・ローゼンブルームが新しいオーナーとなる。
チームは開幕4連敗の後成績不振の責任を取ってHCスコット・リネハンが退任し守備コーディネーターを務めていたジム・ハスレットが臨時HCに就任。しかし悪い流れは変わらず過去最低となる2勝14敗というシーズンを過ごした。

to be continued.....






<永久欠番>

7 ボブ・ワターフィールド
28 マーシャル・フォーク
29 エリック・ディッカーソン
74 マーリン・オルセン
78 ジャッキー・スレーター
85 ジャック・ヤングブラッド


<名前の由来>

クリーブランド・ラムズの設立者ホーマー・マーシュマンはチームの名前を簡単に頭の中に入るような短い名前にしようとしていた。そこで当時ニューヨークにあったフットボールの学校のチーム名"Rams"を引用した。


<ラムズの1番>

NFLの長い歴史の中でラムズは数々の偉業を達成した。

・プロスポーツチームとして初めて西海岸にフランチャイズを持った。
・第2次世界大戦後、初の黒人NFLプレーヤ―を生んだ。
・NFLチームとして初めてヘルメットにロゴを入れた。
・NFLチームとして最初にオーバータイムのゲームをした。
・NFLチームとして初めてフルタイムのスカウトを初めて雇った。
・NFLチームとして初めてフルタイムのスペシャルコーチ(ディック・バーミール)を雇った。
・NFLチームとして初めてアウェイのゲームのTV放送を規則的に行った。
・NFLチームとして初めて7年連続地区優勝をした(1973-79)。
・NFLチームとして最初に西から東へフランチャイズを戻した。
・NFLチームとして初めて1年で8つの地区ゲームに負け、次の年に全て勝った。
・NFLチームとして初めて3つのフランチャイズでNFLチャンピオンシップに勝った。


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